褒められたい、認めてもらいたい?それは自分が自身に行う事である
褒められたいとか、認められたいというような事で、嘆き悲しんでいる人がいかに多い事かと思います。以前は僕もそうであったかもしれません。
けれども、もう既に自分は社会人になっているわけです。特に曲がりなりにも起業家になってしまいましたから自分の事業の中では、僕がトップであり、僕は従業員ではありません。僕が判断をしたものを指示をするのです。
僕が間違っていようとも、それが合っていようとも、僕は褒めらる事はありません。そして周囲に認めてもらうというのは、そもそも間違いです。なぜなら、僕が周囲の人々の働きを認めるのであって、僕が自分の事業内の人に認めてもらうというのは間違いです。
そもそも、僕の事を認めていないならば、僕の下で働く必要性はないわけです。それが僕が起こした事業に充実をする人々との労働契約であるからです。僕は保護者でもなければ、また保護されているわけではありません。雇用主と従業員というビジネスライクな関係であるわけです。
僕が従業員として募集をしてきた人に認められるのではなく、そもそも、この事業に従事をして貰うかどうかという事を認めるのは、僕であって、従業員ではありません。
つまり、どこまで行っても従業員と僕の事業をシェアをしているわけではありません。あくまでも従業員は従業員です。それに従事をさせるための承認、つまり認める、その人が従業員であるという事で、この事業内にいる存在であると認めるのは僕なのです。
そして、その仕事の関係では従業員の立場が僕の上にいく事は絶対にありませんし、僕の事業内で働いているのであれば、僕がその人を認めるのであって、彼らに認められるために僕は事業を起こしているわけではないという事が最も重要なところなのです。
つまり、都合の良いキレイごとではなく、そのようになっている世界なのです。
しかし、このような考え方が従業員が安定をした給料を貰うことが出来る環境を維持継続をする事が出来るという根源でもあります。
つまり、自分が誰かを認める主体であっても、自分が誰かに認められるという状態ではいけません。それは自分の事業、自分の存在を他人にゆだねてしまったと言う事に他ならないからです。
自分を褒め、ご褒美を上げ、祝ったり、慰めたり、必要な事を自分自身に自分が与えるのです
自分の仕事を持つという事、自分で事業を起こす事というのは、自分は誰かに褒められるとか、認められるというのは、社会に及ぼした影響によって賞賛、名声という意味合いであるかもしれませんが、学生の頃のように先生に褒められる、親に褒められるというような、そんな雰囲気のものではありません。
それを与えられたいと思っているのであれば、起業などするべきではありません。どこかの従業員としてそこにいれば良いです。
また、誰かに褒められたい、認められたいというのは、誰か自分より上の人から、下にいるあなたを承認をしてもらうという事に他なりません。
誰かの下にいたいと思って起業をしたのですか?それなら起業などしない方が良かったのではないかと思います。
つまり、そもそもの考え違いが、不幸な起業家を生むのであると感じるわけです。
上に行きたいのであれば、自分が少なくともその事業に関して、自分が行う事に対して最も責任がある立場であってトップなのですから、褒められるわけもなければ、認めてもらえるといような外部的なアクションを貰うことは絶対にあってはならないのです。
なぜなら、自分がトップであるのに関わらず自分が起こした事業の中に自分より上がいるという状態になってしまうからです。それはおかしな話です。
事業を起こした自分の価値というのは市場が決める事です。それは褒められるとか、認められるという感覚と異なるかもしれませんが、何よりも市場から自分が受け入れられる事が重要であったはずなのに、それを忘れてしまうから不幸な気分になるのです。
市場が受け入れてくれたら、利益が出ます。その利益が出るという事が、自分が社会に与えた価値であり起業家に与えられる最大の賛辞です。そして、必要とあればその利益によって、必要とあれば自分が自分自身を祝ったり、異なる対応な誰かと食事をしたり、自身に必要なものは自分で用意をするのです。
自分というのは、二人存在をすると言う事実
自分というのは、実はもう一人存在するわけです。
「自分+自身」=自分自身
自身も自分もいづれも、私個人の代名詞ですが、自分自身というのは内面、外面を表象をしたものと言ってもあながち間違いではないでしょう。
「自分が自身を祝ってあげる」というのは、自分が自分を認めてあげると言う事に他なりません。自分が自分を認められないと言って、人からの評価にそれを任せるという無責任な事をするから、自分の価値が少なくなっていくという事実に気がつかないといけません。
自分自身で二人三脚をしている状態でいかないといけないのです。
自分とも協調をする事が出来ない人間が、周囲の人間と協調など出来るわけもないでしょう。最も近い、他人は自分若しくは自身であるのです。
だから、自分が自身を祝ってあげる事が出来ないのに、なんで他人と協調をする事が出来ると思っているのかナゾなのです。
そして、それが理解をする事が出来ているからこそ、今度は人に優しくすることが出来るのです。結局のところ自分の価値を他人にゆだねてしまったが故に、そのような人は自分が認められないとなると憤慨をしだして周囲の責任にします。
いえ。あなたの責任そのものですということも理解をする事が出来ず、自分は不当に承認をしてもらえない、認めてもらないと言い出します。
いいえ。他人に価値をゆだねたから、あなたの価値は外部がいうその通りのものなのです。それ以上の価値はありません。
まずは自分が自身に対して評価を与えて、褒めて、自身と共に祝い酒でも飲めるような、そんな精神構造を必要としているのです。
これが人間的に寂しいとか、そのように思うとか、理屈を理解をする事が出来ないのであれば、最終的には人に優しくは出来ないでしょう。
僕は曲がりなりにも、起業をしてやってきた中でそう感じます。別に冷たくなったわけではありません。より、しっかり理屈が分かったというだけです。
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